【素人映画評論】「教誨師」その1

 


 

 

   こんにちは(こんばんわ)。アップアンドダウンです。美味しいお酒を呑み、良い映画を観て、素晴らしい本が読めれば幸せです。
 

    1月25日、大杉漣の最後の主演作にして、最初で最後のプロデュース作品となった教誨師を観ました。大杉演じるプロテスタントの牧師が「教誨師」として6名の確定死刑囚に相対します。

 

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      今回は、そのレビューその1です。酒を呑むだけでなく、映画のレビューもできて嬉しいですね(微苦笑)。ウィキ  https://ja.m.wikipedia.org/wiki/教誨師_(映画) や公式HP  http://kyoukaishi-movie.com/sp/index.html  には出来るだけ書いていない自分なりの感想を書いてみたいと思います。

 

     このレビューを皮切りにして、映画レビューを息長く続けていきたいですね。酒、本、英語、映画というプロアマ共に競争者の多い分野でブログを続けるのは難しいかもしれませんが、クロネ師匠の言の通り、鉄棒に長くぶら下がっていた方が勝ちですよね?

 

     以下、「教誨師」をこのような構成でレビューしたいと思います(飽くまで予定です。為念)。見るべきか否かの結論は先に述べまして、その後、細部に入って行きます。

 

     相当なネタバレを含むと思います。そこは注意喚起します。その1をお読みになって観たいと思われた方は、そこででお止めください。ただ、全て読んでしまった上でご覧になっても大きな問題はないかもしれません。所詮、文章では映像や音楽、更に映画を観て感じた心の襞を全て表現出来る訳ではありませんから。また、感じ方は個人の身体性に基づくものなので、私の感じは私だけのもので、それとは別の感じ方を感じると思うので、最後まで読むという選択もあると思います。

 

.  全体的な評価(観るべきか否か)と考察   ←その1です

.  全体的な流れについて

.  クライマックスなどなど

 

. 全体的な評価と考察

(1)「教誨師」は是非観るべき映画だと思います。何故なら、私は、この映画を良い映画であると考えているからです。ただし、「死刑制度を論じるため」や「宗教(特に、キリスト教)の力を感じるため」に観るべき映画ではないと思います。むしろ、主に、映画の力を知る為に観る映画だと思います。少なくとも最終的には私はそのように観ました。

(2)「教誨師」を何故私は良い映画であると思うのでしょうか(そして、他の皆様にとっても、良い映画であり得ると考えるのでしょうか)。第一に、この作品が映画製作の特質を活かし、映画製作の為の技術を充分に活かした「立体性」を有していることです。第二に、この「立体性」がある故に「多義性」を有していることです。第三に、作品の中に見通せない暗闇、光に対する影、埋められない欠落があることです。第四に、これら三つの理由の故に、映画の力を知る映画であることです。

(2)映画における「立体性」は何で担保されるか。それは、主要人物の対話や葛藤を主題とした「近景」と主要人物によって想起される過去や視認される幻等が「遠景」が映画の「立体性」を担保するのだと思います。その為には、製作面でのキチンとした軸が必要になります。原作(もしあれば)・脚本と演出にキチンとした軸があることは大変重要なことでしょう。キャストの重要性も見逃せません。何が「近景」で何が「遠景」であるか分からない映画は、往々にして(「大人の事情」によるものか)主役か準主役を張れるような俳優を中途半端にキャスティングしている為に、景色がボヤけてしまうし、折角の役者さん達を活かせないようです。

(3)映画の「多義性」は何故発生して、何故良い作品作りに貢献するのか。映画の優れた立体性及び生身の俳優が言葉による脚本「解釈」して演技することで当初に原作者や脚本家か想定した以上の運動性が生じ、結果として映画の「多義性」が発生するのだと思います。私は、ある種の漫画が「絵付きの小説」であると考えると共に、ある種の映画は「映像・音楽付きの小説」であると考えています。作家の保坂和志氏は、「書きあぐねている人のための小説入門」の中で「ストーリーテリング」に対する概念として「小説」を提示しています。登場人物にかっちりとした役割と行動が与えられ、終着駅が(少なくとも作家の頭の中で)明確なのが「ストーリーテリング」です。一方小説では、作家によって設定された登場人物が独自の運動性を得て動き出すことが屢々です。その為作者や読者が愛する登場人物が死ななくてはならない羽目に陥る(例:「鬼平犯科帳」における密偵・伊佐次、「明日のジョー」における力石徹)わけです。原作あるいは原案から脚本家が脚本を制作した段階から、登場人物の独自の運動性は既に発生しているのでしょう。映画では、生身の俳優がその脚本を解釈して独自の身体性に従って演じることによって、追加的な運動性と多義性が生じるのです。この「多義性」が生じるところでは、脚本家の当初の主要な主題(=近景)が副次的な主題(=遠景)に後退することがままあります。それは、この映画でも同じであり、脚本家(この映画の場合には監督が兼任しています。)が提示した主題(死刑制度の是非について問うこと)は単なる映画の一部になっているに過ぎません。

 

 

書きあぐねている人のための小説入門 (中公文庫)

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(4)見通せない暗闇、光に対する影、埋められない欠落がない映画は退屈であり、不自然です。これらの要素こそ、映画という芸術をより立体的にし、自然にし、魅力的なものとするのです。見通せない暗闇は、ホラーやサスペンスの主要な構成要素です。光に対する影は、主役たるヒーローが生きる意味です。そして、埋められない欠落を埋める努力が人間を何者かにしていくのでしょう。高橋留美子さんに「めぞん一刻」という漫画があります。この漫画のヒロインである響子さんは、物語が始まる前に夫を極く若くして亡くしているのですが、その夫(「惣一郎さん」)は響子さん本人の回想の中でも顔無しで登場するのみです。この漫画は主人公の五代君が少年から青年になる中で一種のハッピーエンドで終わるのですが、「教誨師」では、主人公の周りにある闇や影や欠落は大小、新旧共に残されたままで、観客はそのままで取り残されます。空白をテキトーな理由で埋めないことが私にとっては良い映画を作る一つの重要な要因だと思います。

 

 

めぞん一刻 文庫版 コミック 全10巻完結セット (小学館文庫)

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(5)映画の力を知ることができる映画は、「小説の力を知ることができる小説」、「漫画の力を知ることができる漫画」、「落語の力を知ることができる落語」と同様に価値が高いと言えます。前出の保坂和志は、「書きあぐねている人のための小説入門」の中で、小説は何の為にあるのかを考えつつ書くのが現在の小説である、といった意味のことを書いています(正確な引用ではありません)。保坂氏はこの本の中で、キリスト教宣教師と人喰い種族に関する主題がくっきりとした前現代の小説について述べています。現代までに小説のテクニックは向上したものの、小説のフロンティアは開拓し尽くされており、現在の作家は「小説は何か」「小説で何ができるか」を常に考えざるを得ない状況にあるというのが保阪氏の言い分です。「映像のある小説」とも言えるも同じ状況であり、同様な思索が基盤にないと良い映画、後々までに観られうる深みや奥行きのある映画にはならないのでしょう。「教誨師」では、映画作りの為の様々なテクニックが使われています。しかし、それだけでなく、製作側に映画自体がいかにあるべきかという思索があると感じました。これが私が「教誨師」を良い映画、観るべき映画と考えた最後の理由です。

 

    長くなりました。より具体的な「教誨師」の内容紹介は、次回に譲ります。

 

    お立ち寄り頂きありがとうございました。